「宗岳寺」羽犬塚六地蔵尊 羽の生えた犬【羽犬伝説】

今回は筑後市にある「羽犬塚」の地名の由来ともなっている羽の生えた犬、羽犬の伝説と縁の深い「宗岳寺」についてご紹介していきたいと思います。

地元の方でも羽犬の伝説についてよく知らないという人は多いようですが羽犬の像は羽犬塚内に複数ある為、羽犬の存在を知っている方は多くいらっしゃるようです。

 

福岡県筑後県税事務所前の羽犬の像
羽犬塚小学校前の羽犬の像
羽犬塚駅前の羽犬の像
市民の森公園にある羽犬のオブジェ

また、現在、羽犬をモデルとした「はね丸」も筑後市のマスコットとして活動しているのではね丸から羽犬に興味を持ったという人もいるかもしれません。

 

宗岳寺を外から見た写真と宗岳寺の入り口の看板の写真です。看板の奥にはお寺に入る為の門があります。

右の「犬の塚」と表記されたものが羽犬のお墓になります。

この宗岳寺には「羽犬塚」という町名の由来が記されており、ここには以下のように書かれています。

町名「羽犬塚の由来」

もとこの地を葛野(クズノ)といった(延喜五年の延喜式駅馬の条に)のち天正十五年(1587年)豊臣秀吉九州進軍の折この地にきて羽のある犬が居て死んだ。それをこの地に埋めそこに塚(墓)を建てた。これを羽犬塚と称した。この羽犬塚をもって地名とした。

根據(根拠)

一.羽犬塚六ケ所大権現縁起(元禄十五年 1702年)爰に天正文禄の頃、関白秀吉公薩州下向之時、羽ある犬を召され給う、その犬爰に死別宿町のほとり塚を築く、これより羽犬塚町名付と云う。

二.筑後誌(安永六年 1777年)羽犬塚里老伝へ云う。往昔両異の犬隠れ住んで往来の人馬を害す秀吉公九州征伐の時狩りしてこれを殺し此所に埋めて石碑を建て羽犬塚と号す後年民家を建て駅所となる。

以上、愛犬説と暴犬説がある。

(1)の愛犬説は賢い犬が居て人々から可愛いがられ惜しまれて葬った。

(2)は暴犬説で人畜に害を与え世をあげてぬるいあがらせた。当寺(宗岳寺)境内に高さ三米位いの五輪之塔の大きな基石が建てられいかにも犬の墓としては堂々としたものである。どのように考へても悪い事をした犬の墓とは思われない。

町名の起りを伝へる大切な犬の墓として郷土の誇りを伝へる愛犬の墓として保存しよう。

六地蔵尊の由来について

犬の塚の横にまつられている六地蔵尊は豊臣秀吉公が当寺に来たときに寄進したものです。(筑後秘鑑による)

昭和五十年八月五日

宗岳寺護持会

こちらは羽犬塚小学校の校門前にある羽犬の像なのですが、正面には豊臣秀吉の肖像画が金属板に彫られています。

羽犬塚小学校の校門前の羽犬の像の側面にはこのような文言が書かれた金属板が貼られています。

以下に書かれている内容を記します。

「羽犬塚の伝説」

羽犬塚のまちは、むかしから豊前(北九州)や筑前(福岡・筑豊地区)の国から、肥後(熊本)や薩摩(鹿児島)の国へ通じる坊の津街道の宿場町として栄えてきました。

この羽犬塚の地名の由来について、つぎのような伝説があります。天正十五年(1587年)四月、おりから天下統一をめざす豊臣秀吉は、数万の大軍をひきいて九州に遠征してきました。

そして、この羽犬塚にさしかかったとき、連れていた敏しょうで羽根がはえたようによく跳ぶ愛犬が、この地で敵の矢にあたり死にました。

秀吉は、この愛犬をとむらうため塚をつくり、羽根の生えた犬の塚という意味で「羽犬塚」と呼ぶようにしたそうです。

この石碑は、ここ羽犬塚小学校北側にある今回ご紹介した宗岳寺の敷地内に現在も残っています。

上記の文面は小学校の像に記されているだけあって難しい漢字も使わず、分かりやすく解説されています。

元々は暴犬説と愛犬説があったようですが、現在では愛犬説の方が推奨されているようで、こちらにも愛犬説のみが記されています。

以上、「羽犬伝説」と「宗岳寺」のご紹介でした。

名称宗岳寺 羽犬塚六地蔵尊
住所〒833-0003 福岡県筑後市羽犬塚521
TEL0942-52-2620

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