「六所神社(六所宮)」筑後市羽犬塚

ハイヌくん
今回は筑後市羽犬塚にあるにある神社「六所神社」を紹介します!
鳥居から拝殿まで

「六所神社」は国道209号線から少し東側に入った所にあり、入り口には上記の写真のような朱色の看板があります。ここに書かれている通り、六所神社の境内には羽犬塚恵比寿五体があり、これは筑後の国最古の建立だとされています。
羽犬塚恵比寿は「商売繁盛」「家内安全」「縁結び」などもご利益があるとされ、多くの参拝客が訪れています。

この写真の正面に写っている灯篭から左に曲がった道が拝殿に続いています。

六所神社 拝殿
拝殿

拝殿の右側には上の写真のような説明書きがあります。写真だと少し見づらいと思われますので以下に内容を記します。

六所神社(六所宮)

鎮座地 筑後市大字羽犬塚六五二-二

羽犬塚恵比寿五体の前には広場があり、15m×15m程度の広さがあるようです。

鳥居をくぐってまっすぐ進むとその先には上記の写真の粟島神社があります。

この神社の前には子供が通れる程度の小さな鳥居がふたつ並んでおり、この鳥居を腹這いになってくぐり抜けると「婦人病や腰痛の治癒」「健康になる」「安産・子宝に恵まれる」などのご利益があると言われています。

御祭神 天照大御神 住吉大神 瓊々杵尊 高良玉垂命 事代主命 児屋根命

御創建 承平年中(西暦九三一~九三五年)

旧社格 村社(羽犬塚町 徳久 山ノ井)

御創建由来(熊野坂東寺より勧請)

坂東寺縁起によると「坂東寺に六所権現社あり、これ昔百歳坊という人霊夢によって勧請す。」とある。

例祭日 正月元日 三月三日 十一月三日

末社 栗島神社 素戔嗚神社 坂本社 恵比寿神社 水天宮 祖霊社

御祭神 栗島神社(少彦名命) 素戔嗚神社(健速須佐能男命) 坂本社(大山昨命、筆の神様) 恵比寿神社(事代主命) 水天宮(安徳天皇、二位の尼、他) 祖霊社(羽犬塚地区英霊)

九州最古社

夫婦恵毘須神社 正平十二年(一三五七年)建立

正平塔 南北朝時代の南朝方の南朝方将士の供養塔 正平十一年(西暦一三五六年)建立(当初)

羽犬塚の地名の由来 六所大権現縁起によると、「関白秀吉公、薩州下向之時、羽のある犬を召し給ふ」とある。羽犬の塚を築く。

平成 三十年六月一日

拝殿 左側面
本殿 左側面
本殿 背面
拝殿 本殿 右側面
拝殿 斜め
境内の様子
手水舎
羽犬塚恵比寿五体の前の広場
天満神社

六所神社の末社・天満神社です。御祭神は菅原道真とされています。

 

戦没者慰霊社

第二次世界大戦における羽犬塚地区の戦没者の慰霊の為に作られた社です。

 

粟島神社

鳥居をくぐってまっすぐ進むとその先には上記の写真の粟島神社があります。

この神社の前には子供が通れる程度の小さな鳥居がふたつ並んでおり、この鳥居を腹這いになってくぐり抜けると「婦人病や腰痛の治癒」「健康になる」「安産・子宝に恵まれる」などのご利益があると言われています。

羽犬塚恵比寿

左から「下の町・ 恵毘須像」「春日町・恵毘須像」「」「」「」

鳥居をくぐった後に左手側にある手水舎の隣には表の看板に書かれていた「羽犬塚恵毘須五体」が祀られています。五体の恵毘須像は左から「下の町・恵毘須像」「春日町・恵毘須像」「下町・
恵毘須像」「中町・夫婦恵毘須像 」「上町・恵毘須像」とされており、その右側には「羽犬塚恵比寿大祭 六五拾年記念碑」と書かれた記念碑があります。この羽犬塚恵比寿大祭とは毎年1月10日に地域の恒例行事として行われる「十日恵毘須大祭」の事です。記念碑が建てられた年は書かれていませんがとても歴史のあるお祭りだという事が分かりますね。

名木百選
名木百選 くすのき 筑後市2
クスノキ(樹齢850年、幹周り5.6m)

境内には巨大なクスノキの樹木があり、筑後市の銘木百選にも指定されています。樹齢は約800年以上とされ、指定番号は2番と非常に早い番号となっています。

正平塔について

写真の石碑は拝殿の前にも記述のあった正平塔だと思われます。上記の写真の掲示板の内容を以下に記します。

正平塔 (正平十一年建立)(西暦一三五六年)

この塔は、南北朝時代における南朝方の将士戦没者の冥福を祈るための供養塔と考えられる。製作者は一三五〇~一三五七年の間、肥後中部から筑後南部にかけて石造を制作した筑後馬篭の大工、藤原助継と推定される。ただし、現在の石碑は一八四四年、久留米藩、第九代藩主、有馬頼徳公が建立したものである。

本来の正平塔は、久留米城の東北に広がっていた別荘とも言われる柳原園に移されたと歴史書に書かれているが、現在の所在は不明である。

こちらの掲示板には九州南北朝の正平塔にかかわる歴史について年表と共に概要が書かれています。以下にその内容を記します。

九州南北朝の正平塔

1336年 延元元年 多々良浜の戦い、菊池武敏と足利尊氏の戦い。黒木へ退却。黒木城に逃げた菊池軍を足利尊氏が追撃。(豊福原・六段河原合戦 1351年までに4回)

1337年 延元2年 (長田河原合戦)尊氏軍、筑後鶴田に陣を張る菊池軍は隈府(菊池)まで撤退する。(地名 血村から志村へ)

1339年 延元4年 後醍醐天皇、五条頼元に勅して九州の事を委ねられる。

1348年 正平3年 征西将軍宮壊良親王、宇土、菊池を経て筑後へ入る。(菊池征西府)

1351年 正平6年 壊良親王、菊池武光、筑後溝口城の少弐軍を攻撃し、8年ぶりに奪還し、南朝軍の快進撃が始まる。その後、瀬高から筑後国府に陣を敷く。
征西軍、西牟田寛元寺に乱暴、狼藉禁止の制令を立てる。

1353年 正平8年 一色範氏、少弐頼尚の古浦城を攻撃。頼尚、少弐冬資を溝口城に遣わす。冬資は壊良親王と菊池武光に援軍を求める。(三者会談) 壊良親王と菊池武光が高良山に布陣。(征西府) 針槢原の戦い。溝口城に攻撃開始。筑紫野市で菊池、少弐軍が一色直氏らを破る。

1356年 正平11年 羽犬塚六所宮境内に刻字のある二輪塔を建立。 後世、人はこの供養塔を正平塔と称する。

1359年 正平14年 筑後川の戦い(大保原の戦い)壊良親王、菊池武光の南朝軍勝利。「太刀洗」の地名の由来。

1360年 正平15年 五條良氏卒し、五條良遠、矢部高屋城に拠る。少弐頼尚を破る。

1361年 正平16年 征西府が太宰府に移される。壊良親王、五條頼元、良遠、菊池武光、大宰府制圧。

1366年 貞治5年 貞成親王、九州に下る。(後征西将軍宮)

1369年 正平24年 明の使者が征西府(大宰府)に来る。

1372年 文中元年 今川了俊 大宰府を奪還。菊池武光 高良山に退く。

1374年 文中3年 菊池武朝、壊良親王、良成親王を奉じ隈府(菊池)に帰還。

1375年 天授元年 壊良親王、矢部に隠退。征西将軍を良成親王に譲る。

1377年 天授3年 壊良親王、矢部、星野(大円寺)に入る。

1378年 天授4年 菊池武朝、良成親王 宅麻原の戦いで今川了俊を破る。

1383年 弘和3年 壊良親王、星野妙見城でにて薨去。(55歳)

1391年 元中8年 大友親世が豊後と筑後から矢部を攻める。八女市忠見に陣を敷くが、攻撃の後、筑後赤坂に退却する。黒木氏調一統と五條頼治に敗れる。 
良成親王、矢部高屋城に在城。(33歳)

1392年 元中9年 南北朝合一 (後亀山天皇から後小松天皇へ)

1393年 元中10年 今川了俊、良成親王を連歌の会に招待する。

1395年 応永2年 良成親王、黒木の素戔嗚神社に藤を植樹する。 大友道徹、矢部を襲い五條氏に撃退される。 八女忠見より攻撃するが、筑後赤坂に撤退した後、退却する。 良成親王、五條良量の勲功を賞し、感状を与える。 
良成親王没す。(後征西将軍宮)

恵毘須大祭

六所神社の境内では毎年1月の第2日曜日に「恵毘須大祭」というお祭りがおこなわれています。

詳しい情報に関しては以下のリンク先のページからご覧ください。

九州最古とされる夫婦恵毘須神社や当時の歴史を知るための手助けをしてくれる正平塔など、六所神社は多くの見どころがある神社だと感じました。

今回、ご紹介した情報以外にも六所神社の境内には様々な見どころがあると思いますが今回はこの辺りでまとめたいと思います。

以上、筑後市羽犬塚にある神社「六所神社」のご紹介でした。

住所・地図
名称 六所神社(六所宮)
住所 〒833-0003 福岡県筑後市羽犬塚652-1

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